白樺派の支柱、武者小路実篤も手賀沼を望むこの地に住んでいました
武者小路実篤
小説家・詩人・劇作家・画家、さまざまな顔を持ち、その才能を発揮した日本の文人で、文化勲章も受章しています。
白樺派の思想代名詞的存在
と言われています。
彼もまた風光明媚な手賀沼湖畔に魅了された一人。
武者小路実篤は大正5年から大正7年までこの地に居住していました。子供の頃から『水のあるところに住みたい』というの願いを持っていたとのことですから、さぞこの地は気に入っていたことでしょうね。
ここで「大和武尊」、「AとB」などを執筆し、「新しき村」の発会式も、手賀沼湖畔の武者小路実篤邸内で開かれました。
手賀沼観光シリーズ、今回はその武者小路実篤邸跡と、実篤邸跡を囲む船戸の森についてお伝えしていきましょう。
紅葉の季節。手賀沼湖畔の散策は最高の時期!絶景だらけですよ!
武者小路実篤邸跡 〜武者小路実篤と白樺派〜
白樺派とは?
という疑問をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
カンタンにご説明いたしますと…
武者小路実篤は明治43年に、志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌『白樺』を創刊。彼らはこの雑誌にちなんで白樺派と呼ばれました。
同じ白樺派の仲間である柳宗悦が、嘉納治五郎先生に招かれ、手賀沼湖畔(千葉県我孫子市)に居住すると、それに志賀直哉らが続き(柳宗悦が呼んだ)、大正5年、ついに武者小路実篤もこの地にやってきます。
そうして優れた文人らが手賀沼湖畔に集結し、白樺派文学が進展するきっかけになったんですね。
Wikipediaでは以下のように説明されています。
白樺派(しらかばは)は、1910年(明治43年)創刊の同人誌「白樺」を中心にして起こった文芸思潮のひとつ。また、その理念や作風を共有していたと考えられる作家達のこと。
出典:Wikipedia
その武者小路実篤邸跡が現在も残っており、今でも当時の面影を残しています。
上記の写真の石碑までは誰でも行くことができますが、現在は三協フロンティア株式会社が所有しているようで、一般人は中に入ることはできません。
社内の研修などで利用されているそうで…社員さんうらやましい。。。
外からも庭や屋敷の様子は伺えますが、それはもう素晴らしいの一言です。
2年しか住まなかったのはもったいない!!
主要な白樺派の顔ぶれ
【作家】
武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見弴、柳宗悦、郡虎彦
【画家】
中川一政、梅原龍三郎
【美術史家】
児島喜久雄
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柳宗悦を我孫子に呼んだ教育者・嘉納治五郎、『白樺』の表紙絵を描いたこともあった、陶芸家・バーナードリーチなど、上記以外にもこの手賀沼湖畔には白樺派と関わりの深い人々が多く居住していた。
白樺派の文人たちも歩いた『船戸の森』
武者小路実篤は毎日のように志賀直哉、柳宗悦の家を往来し、家族ぐるみの交流をしていたそうです。
この武者小路実篤邸跡を囲む『船戸の森』の中もきっと歩きつくしていたことでしょう。
長い坂道の脇にこの階段。
森の中の道は地元の方々の努力でよく整備されており、趣のある佇まい。
いつも鳥たちの鳴き声がこだまし、なんとも素敵な気分にさせてくれます。
メジロ、コジュケイ、モズ、ヒヨドリ、ウグイス、キジバト、ムクドリ、オナガ、コゲラ、シジュウカラ、ホオジロ…
たくさんの野鳥が姿を見せてくれます。
空気も澄んでいて、深呼吸したくなりますね。
写真ではわかりづらいですが、うっそうと繁る木々の合間からは手賀沼が…
高台から望む手賀沼は本当に美しい…
木漏れ日の中を歩き、当時の文人たちを想う。
高台にある『船戸の森』を下るとそこはハケの道。
ハケの道の道中には、今でも湧き水が絶えることなく流れ出ています。
船戸の森が途切れたその先は手賀沼が広がります。
この記事で説明しています → 30分で覚える!手賀沼観光絶対攻略マニュアル
ぜひ、この武者小路実篤邸跡〜船戸の森を、手賀沼周辺散策のコースに加えてみてください。当時の面影が今も残り、白樺派の文人たちの足跡を辿ることができますよ。
まとめ
武者小路実篤は、この地を想い、このような言葉を残しています。
『ことに夕日が美しかった。夕日に雲が反射して、それが手賀沼を金色に染めた。彼の運命が暗示されてゐるやうに思へた』
当時からこの美しい手賀沼は人々を魅了していたんですね。
いやぁ風情があります。
さて、今回ご紹介した、武者小路実篤邸跡〜船戸の森の地図をご案内しましょう。
手賀沼公園からも近く、サイクリングやウォーキングのついでに寄ってみると良いかもしれませんね。